全日本学生弁論大会
 

立命館大学弁論部

立命館大学弁論部は少数精鋭で活動をしている。悪く言えば単に部員が少ないとも言える。各大学の弁論部と比較すると、大した伝統も残っておらず、弁論としての「この大学のイメージ」のようなものもない。その分、弁論部として型にはまった弁論をすることもないが、部員個人の個性や主張を最大限生かした弁論ができると自負をしている。弁論大会に出場してきた部員たちの弁論を見ると、その片鱗が垣間見れると思う。今年度末には、清新杯の開催を予定している。近年は開催が滞っていたが今年度から再び開催ができるよう準備を行っている最中である。立命館に再び学生たちの声が響くこととなると思うと、今からでも楽しみである。志高き雄弁家諸君の熱き想いが聞けることを心より期待している。

学生弁論というものは非常に長い歴史を持っているものであり、現在でもその伝統を重んじる面も多くみられる。我々の学び舎が根ざす、京都。日本国の歴史と伝統を受け継ぐこの街は、実は新たな文化の受け入れや創造、発展も盛んである。伝統は常に生きているものだ。我々は伝統をただ従順に受け入れ、そのままに受け継いでゆくことが良いのか。それでは伝統は死んでいるも同然だ。伝統と革新は常に結びついている。受け継がれてきた伝統と向き合った上での革新と創造。それが伝統の新たな一角を成してゆくのだ。

「意は似せ易く、姿は似せ難し」とは本居宣長の言葉である。良い意見や主張は簡単に真似できる。だが、その人物の姿までは真似できない。弁論は単に論理が通っている弁論を言えばそれでい良い主張、良い弁論なのか。ただ論理が通っていれば、街中をぶらぶらと歩く若者が皆振り向いて頷いて賛同してくれるのか。最終的に相手を振り向かせるのは弁士の「気持ち」である。我々は人間としても日々努力を重ね、学生弁論の伝統に新たな風を吹かせ、そして自らも伝統の新たな一頁となることを目指す。

「修行に於ては、これ迄成就といふ事はなし。成就と思ふ所、その儘道に背くなり。一生の間、不足々々と思ひて、思ひ死にするところ、後より見て、成就の人なり。」(葉隠)